元吉原と新吉原 ~幕末時は遊女5000人~

吉原とは? ~幕末時は遊女5000人~

吉原とは? ~2つの裏話~

吉原とは吉原遊郭(よりわらゆうかく)と呼ばれ、江戸幕府によって公認された遊郭です。吉原の今の住所は、台東区千束3丁目~4丁目付近です。その昔は、葭が茂る湿地帯で葭原(よしはら)と呼ばれていましたが、縁起のいい「吉」に文字を変えて、「吉原」になったと言われています。

吉原の遊女は階級が分かれ、位の高い遊女は高い教養を求められ、三味線や琴などの芸事に加え、茶道や書道なども教え込まれていたようです。

しかし、だからと言って、遊女がまともな扱いを受けていたわけではありません。稼いでも借金が減らない仕組みのに苦しむことが多かったようです。また、遊女は自由に外に出ることもできません。吉原は、逃亡できないように周囲には塀が建てられ「お歯黒どぶ」と呼ばれる壕で囲まれていました。出入口は大門という門のみで、常に厳しく監視されていたようです。

吉原の裏話が二つあります。

  1. 吉原は斜めに作られています。その理由は!?
  2. 大門の入り口はS字。その理由は?

吉原遊郭があった地域付近は斜めに作られています。これはどの方向を向いて寝ても北枕にならない(縁起が悪くならない)ようにという意味が込められているようです。

大門の入り口は、現在の地図でみるとS字になっています。外の世界から中の吉原遊郭が見えない様、こういう道になったそうです。

吉原はなぜ移転したのか? ~元吉原と新吉原~

東京「地理・地名・地図」の謎より

1657年の明暦の大火により、中央区人形町付近にあった遊郭が焼け落ちたことが原因で、浅草寺の裏手の一画へ移転していきました。もともとあった中央区人形町付近の場所を「元吉原」、新しく移った台東区千束付近の場所を「新吉原」と呼ぶようになりました。

実際のところは、幕府が火事の以前から、吉原の町名主に移転を命じていたようです。江戸の発展と共に吉原が中心地に近くなり、都合が悪くなってきたためです。そのため、火事を契機に、移転が進められることになりました。

元吉原と新吉原の今!!

元吉原(人形町付近)の今!!

元吉原の位置は、中央区人形町付近です。上記の地図の赤く囲った範囲になります。

元吉原の中心部は、大門通りが走っています。上記の地図に黄色いラインマーカー部分です。

元吉原の場所には、末廣神社があります。そこには、「末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当時は葭原と称した)がこの地にあった。当時(元和3年から明暦3年まで)その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の4か所の氏神として信仰されていました。」という記載があります。

また、玉垣に「葭町芸妓芸妓屋組合」の名前が見られます。遊郭が移転した後、この地域は花街として繁栄した歴史があります。

新吉原(千束付近)の今!!

現在の吉原の範囲は、おおむね上記左側地図の赤く囲った範囲です。今回は吉原の入り口部分について、現地確認してみました。上記右側地図の「赤丸が見返り柳」「水色丸が五十間道のS字クランク部分」「オレンジ丸が吉原大門跡」「緑丸がお歯黒どぶ跡」の4か所です。

吉原大門交差点には、「見返り柳」があります。見返り柳は、吉原遊郭の名所の一つで、吉原で遊んだ客が後ろ髪をひかれる思いを抱きつつ、この柳付近で振り返ったことからその名前がつきました。

吉原大門交差点から、吉原(遊郭跡)に向かう、「S」の字に曲がった五十間道を進みます。確かに吉原大門交差点から吉原大門跡付近は見えませんね。

まず、お歯黒とは歯を黒く染める風習のことです。吉原遊郭は、塀に囲まれて遊女の逃亡を防ぐために大きな溝がありました。その場所を「お歯黒どぶ」と呼びます。その理由は、遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てていたことから、このように呼ばれたそうです。

現在、お歯黒どぶの跡が残っている石垣は、上記地図の緑色の丸で囲まれた場所です。現地で見ても言われないと気づきませんが、知ってその場所に行くと違和感は感じますね。